1221

1221といえば


承久の乱。
5月だったようで。
1219で実朝暗殺なので、近すぎ!とも思うけど、まあ、ここも語呂合わせで。

人に(12)不意(21)打ち、承久の乱

ふうむ。

人にひどく(1219)嫌われる実朝

よりはましかなあ。
顛末てきには1221年、後鳥羽上皇が、

鎌倉幕府の、時の執権・北条義時追討の宣旨

を出し、

鎌倉幕府と武力で衝突(してみるも敗北しちゃった)

という事件のこと。
承久の変とも。
後鳥羽上皇は鎌倉幕府三代目、実朝けっこう気に入ってたらしい。
それは実朝が、

和歌を好む京風の教養人

だったおかげなのに、1219年に実朝が暗殺されてしまったことで、後鳥羽上皇は、鎌倉幕府との良好な関係を維持する意欲を失ってしまった。 
お気にの実朝の死後は、殺した公暁までもソッコー討ち取られてしまったため、源氏の血脈があえなく途絶え、北条の時代が来てしまった。
北条政権となった鎌倉幕府と後鳥羽上皇の緊張関係。
後鳥羽上皇は鎌倉幕府への不満を強め、倒幕の準備を始めたけど…

1221年5月、後鳥羽上皇は、時政を引き継いだ執権

北条義時を追討せよ

との宣旨して、流鏑馬を口実にして兵を集め、京都守護を討ち取ったまではよかったが…

鎌倉幕府は大軍で、京都を攻めた。
6月には京都は占領され、

後鳥羽上皇は隠岐に、
その子・順徳上皇佐渡に、
同・土御門上皇は土佐に、

配流された。
武家政権の全国的な優位が明確になってしまったことで、北条家の執権政治は名実ともに確立されてしまったのであった…

とはいえ北条執権政治も十六代も続いた割に誰もほとんど覚えてない。
記憶に残らない政治屋武家?
ちょっと調べてみないとな。

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